呼吸

 凡そ武術全般に通じるものが呼吸である、と最近思うようになってきた。やっぱり自分の身体動かしてると、色々と思うことがあるのでね。


で、『呼吸』って何なのかと言いますと、よく分かりません。はい、ごめんなさい。



合気道で「呼吸法・呼吸投」なるものがありますが、正直どの辺が呼吸なのか分かりません。




 感覚的には分かるんですが・・・・・本とか読んでると、それなりの定義や具体例が載っていますが、やっぱり自分で体得しないと納得いきませんし、武術ではないと思うので。




 僕はかれこれ3年近く先生の元で稽古をしていません。学校が忙しいのと、バイトの関係で、時間が取れません。そんなこんなで行き着いたのが『自ら学ぶ』と云うこと。本来ならば師について様々なことを学んでいくのが(もちろんそれに伴い自分で稽古していくことも)武術稽古であるのでしょうが、それが出来ないとなるとこれしか残ってなかったんです。過去4年間で身につけた、学んだ術理を元に単独稽古。稽古稽古稽古・・・時間はかかりますが、やはり、身体に残るものは大きいです。たぶん、稽古から離れて時間が経っても、生涯からだの中に生きていくくらい身体に染み込ませないと意味がないです。ご丁寧に「内受突」だの「逆小手」だのが出来たって何の意味もないんです。大切なのは身体(或いは心体)の中に残すこと。残身(或いは残心)と言います。(一部僕の造語ですが最近確信に変わってきたので言い切ります)。理論云々ではなく、実際に出来て初めて、実践(実戦)できて初めて武術です。そうでなけりゃラジオ体操で十分です。『武術』『武道』を学ぶとはどういうことか、今一度考えてみると、今後の稽古に変化が現れるかもしれませんね。普段人前ではちゃらっとしてますが、ちゃんと一人稽古もしてます。







 話を元に戻します。では自分なりの「呼吸」に対する答えを提示したいと思います。





『呼吸とは流れである』




です。自分の体に合った、自分だから出来る、自分にしか出来ない、そういった連なった体の動き全般を指して「呼吸」であると思うのです。静かな・元気な・大きな・小さな、人により様々な呼吸(内面)があるように、言い換えれば様々な動き(外面)があるはずです。ならば、『呼吸投や呼吸法』も一連の流れを学ぶ稽古になるのかな?


 例えそれが型稽古から学んだものであっても、受け取る器の形が違えば、中に入る水のように形は変わるはずです。各々が各々の呼吸を見つけ出すことが、(動きを真似るだけの)単純な型稽古を脱するヒントになるやもしれません。何だかまとまりませんが、今日はそんな事を思いながら一人、稽古をしました。