稽古

 本日は千葉大で出稽古に行って参りました。そこでの出来事です。



 明日の市原大会の演武練習をしていた組に「送天秤捕」と言う技の指導をしました。本来この技は「送小手」が失敗・流れ、攻者が逃げようとした場合に捕るモノ。基本的に「送」関係での攻者の逃れ方は、

1・肩が先行して回転する

2・後ろを振り向く

3・肘を曲げ攻めてくる

4・守者が下手で掛からない


の何れかが挙げられる。そしてこの様な状況に対して技が変化していく。其々に共通するものは、『技をかける位置』。当然「送小手」からの変化なので、必然的に場所は定まる。そして攻者の状況によって技が決まる。この「送天秤捕」の状況とは、「攻者の腕が曲がった、或いは伸びて技が流れた」これになるか「守者が掛けたい」のかどちらか。僕にはどちらにも当てはまらない様に見えた。



少林寺拳法の演武では頻繁に見られることだが、技をよく見せようとするあまり変化技の母体となる技を疎かにする。(今回指導した子はこれの典型だった。)少林寺拳法の柔の技は、全て守法から派生している(僕はそう考える)。故に守法を疎かにし、母体となる技を疎かにすれば、全てが駄目になる。人に見せてただ喜んでいるパフォーマーならまだしも、少林寺拳法は武術なのだから。当然武としての技の在り方から外れているものは間違いだ。武道とは『死中に活を見出す』修行法、一つ一つの動きに全身全霊を持って励むことが重要だ。



 ま、これはあくまでも僕の理想論であって絶対ではない。今回指導した子にもそれを強要する気もない・・・・・のだが、最低限、技の成り立ちを知ってもらいたい。彼女曰く「こう習ったから」。彼女も納得いかない。僕も納得いかない。結論は出ませんでした。



やはり、人から言われたことを鵜呑みにしているようでは、人としても武道家としても成長は止まってしまう。また、指導する側は相手が理解できるよう正しい確かなモノを伝えないといけない。今回は僕の指導力不足だろう。昔から相手に何かを伝えるのが下手だ。こう云う事を通して、日々の生活やボランティアに生きてくれば、と思う。