普及用と個人用
日本の武道・武術の多くには『明確な型』が存在し、それらを決められた枠の中で工夫・研究・練磨する事で上達出来る様体系付けられている。
型で練っていって、それが実際にどうなのか。
諸先生方の中には、自身が『明確な型』から沢山の事を学んできたにも関わらず、そこから得た結果だけを教えよう・披露する人が少なくない。
古流と呼ばれる物には『物事を学ぶ』以前の、『物事を学ぶ為の、学び方』と云う哲学が存在する。その哲学は机上の空論ではなく、実体験を伴った物で非常に難易度は高い。分かれば良い・・・・・確かにそうだが、その「分かった」にも十人十色のレベルがあり、より深い理解が出来るほど尊く、終点はない。
過去に「道場」と呼ばれる様な場所では、お金を払って、型を教えてもらう事が普通だった。
使い方は各々が実地するなり山に籠るなり稽古に励むなりした。
合理主義の最たる西洋に於いて、不思議な事がある。
キル・ビルの監督、クエンティン・タランティーノは出演者であり武道を知る千葉真一に対してこう言ったそうである。
「立ち回りよりも、礼儀作法を教えてくれ」
中々興味深い一言だ。
この岩間道場では、型を教える。開祖の言われた『固い稽古』、続いて相手の動きに合わせた『気の流れ』その先もあると云う。同じ技・動きでも、三段階以上の学び方がある。戦後の合気道でさえ学びには段階があり、また海外の修行者がそれに倣って学んでいる。
何故型や学び方を教えるか・・・『技』=『流儀』が乱れないようにする為だ。
そう云う意味で普及用と個人用(技の使い方を自分に合わせたもの)に分けることは必然であると思う。同じ型や順序を覚えても、得るものは個人の力量によって変わるからだ。ただし、流儀の型に含まれる要素は普遍である。それ以上でも、以下でもない。
型を馬鹿にする人間は、学びが足りないのを自分で認めているような物だ。
さて本題。
空手は型を学ぶ。その延長に組手がある。
合気道は型を学ぶ。1〜5教(ヶ条)、投げ抑え・・・・
柔道も型を学ぶ。乱捕を学ぶ
その他古流も同様に型を学ぶ。
何故、現在の少林寺拳法は型を学ぶ事をやめてしまったのか。二言目には
「〜〜〜先生が・・・」「この前教わってきた〜〜〜」「ウチの道場では・・・」
何故人の言葉を借りるのだろう。
えらい先生方は沢山いる。
ただ、その先生方と
同じ時間・同じ師・同じ肉体・同じ稽古・同じ哲学があれば、同じような技術が身に付く。
ただし、そうでない講習のような場で、聞きかじった程度の技術を普段の稽古の場で広めることは進めない。
間違った稽古法は悪い癖を身に着けさせるだけだ。
藤平先生もおっしゃられている。
そう云う意味で、平たく、平等に学べる稽古はやはり『型』でしかない。
現代に於いて、日本という小さな島国の、「budo」なるものがどうしてこうも広まったのか。
身体の動きとしてベーシック=自然であるものを使い、海外の違う宗教=哲学を持った人達にも「自然である」と受け入れられたからだ。
名人・達人である先生方の動きを考えながら見てほしい。自然である。身体は傾かない。
自然であるから、学びやすい。学びやすいから、自然に出来る。自然に出来るから美しい。
稽古の基本は『型』。『型』は自然に行う。そして自己を最大限に生かす。
基本の稽古と云うのは自分が中心になって自分の姿勢が強いままどう動くか。一つの典型を作って、その中で姿勢を作ったまま動いていく。